東京大学先端科学技術研究センター 協働事業
チガイ・ラボ 講座レポート
コミュニケーションはなぜすれ違った?- 発達障害の当事者研究より -
綾屋紗月先生(東京大学先端科学技術研究センター特任准教授)
講義日 2023-10-06
『自閉スペクトラム症(ASD)』の当事者として、幼少期から生きづらさを抱えていたという綾屋紗月先生。どのように当事者研究に出会い、研究を通してどのように自己理解を深めていったのでしょうか。
※本記事は、すぎなみ大人塾総合コース2023『チガイ・ラボ』で行われたカリキュラムより抜粋・再編集したものです。
このレポート記事は、実際の講座内容をもとに要約したものです。実際の講座が気になる方は、ぜひ動画から体験してみてください。
目次
私は『自閉スペクトラム症』の当事者として活動をしてきました。自分自身の研究からスタートし、発達障害の仲間とともに、2011年から「当事者研究会」を開催して取り組んできました。2012年からは、東京大学の先端科学技術研究センターで、当事者研究のほか、当事者研究の経験・疑問からスタートした学術研究との共同研究にも取り組んでいます。
[講座スライドより]
私は、幼少期から「同世代の集団の楽しさ」が伝わってこないな、と感じている子どもでした。幼稚園で周囲の子どもたちが楽しそうに遊んでいても、自分にその楽しさは伝わってこず、「ガラス越しに眺めている」ような感覚でした。むしろ、突然大きな音が鳴ったり、話しかけられたり、触られたりということがいつ訪れるのか分からず、常に怯えて緊張しながら辺りを観察している状態でした。
「大きくなれば楽しさが分かるようになるのだろう」と期待をしていましたが、成長するにつれ周囲の会話の意味やルールがますます分からなくなりました。焦りや孤立感を抱えながらも、周囲に同調して笑うなど“普通のふり”をし続け、高校1年生の時にはとうとう無理がたたって、しばらく学校に通えなくなりました。
[講座スライドより]
私には、具体的な「困りごと」がいくつかありました。幼少時に感じていた初めての困りごとは、「うまく声が出せない」ということ。幼稚園にいる時は、緊張して周囲を観察してばかりなのでほとんど話さないのですが、家に帰ってくると大量に記憶してきた幼稚園での出来事を吐き出さずにはいられず、お喋りが止まらない状態だったのです。しかし、話すと喉が痛くなり声もいつもガラガラで、親にも「声が大きすぎるよ」「何が言いたいの?もうちょっとまとめて話して」などとよく注意されていたので、声を出して話すということが次第に苦手になっていきました。
二つ目の困りごとは、「文字がうまく読めない」ということです。特に中学校に入ってからの英語の授業では、アルファベットが入れ替わって動いて見え、単語が一向に覚えられずに困っていました。そのような状況を抱えながら授業に追いつこうと必死に努力したことも、後に体を壊した原因になっていたと思います。
30歳を過ぎた時に、自分とよく似た特徴を抱えた自閉スペクトラム症者の手記を発見しました。当事者の日常生活の様子が、「外からはこう見えるかもしれないけれど、こう考えているんだよ」という具体的な内実とともに描かれていて、それらは驚くほど自分に当てはまっていました。
自分の特徴を人に説明できる言葉として、この診断が欲しいと思い、数ヶ月後、医師の診断を受けた私は念願の診断書を手に入れました。ようやく「自分は何者か」という長年の謎が解け、後はもう普通のふりをやめて、ひっそりと暮らしていけばいいと思っていたのですが、そう簡単にはいきませんでした。
というのも、他者とのすれ違いがあった時に、診断のせいで“全部私のせい”になってしまうということが起こり始めたのです。自閉スペクトラム症の診断基準に、「社会性やコミュニケーションの障害」「こだわりが強い」という言葉が入っているためです。こんな危うい診断ではなく、自分の内側で何が起きているのかをより正確に表してくれる診断が必要だと行き詰まっていた時に、当事者研究というアイデアに出合いました。
当事者研究とは、困りごとを抱えた本人が仲間と一緒に自分自身のことを研究・観察して、仮説を立て、日常生活の中で実験し、仲間と共有するという取り組みです。自分のことは自分が一番よく分かっていると言われることがありますが、当事者研究では「自分のことは自分でも分からない。だから研究する」という構えになっています。
[講座スライドより]
研究の結果、私は自分の特徴に関して、以下のような言葉で仮説を立ててみました。
・身体の内側からも外側からも、普通の人よりも「細かく多くの情報」を受け取ってしまい、それらを絞り込んで、「意味や行動にまとめ上げる」のに時間がかかる。また一度できた意味や行動などのまとめ上げたパターンも、少しのきっかけでバラバラとほどけてしまいやすい。
・あふれる刺激を感じやすい。「情報と情報の連携・つながり」を感受しにくい。
・「予測したこと」と「実際に起きたこと」のズレ(予測誤差)に気づきやすい。
例えば、私は「お腹がすいた」という身体感覚が他の人に比べて分かりづらいようです。私の内側で生じているのは、いつも体のあちこちから「手足が冷たい」「頭皮がかゆい」「ぼーっとする」など、さまざまな情報が細かく大量に私の意識に届けられ続けている、という感覚です。やがて、「胸がワサワサする感じがする」「胃がへこんできたような」「胸が締まる」「イライラしてきた」「悲しい」といった情報が新しくやって来るのですが、これらの感覚からだけでは「お腹がすいた」と判断するのは難しい。他にも、「さっき言われたことが嫌なのかも」「本の読みすぎかな」「風邪ひいたのかな」などの推測が可能だからです。
[講座スライドより]
たくさんの身体感覚の中から優先される情報をまとめ上げ、最終的に「これは空腹ということでよさそうだ」と判断するまでには、食事を二食分抜いたぐらいの時間がかかってしまいます。そのため、空腹感を感じていなくても決まった時間に食事をとるようにしたり、人に食事に誘ってもらったりといった方法で対処するようにしています。
[講座スライドより]
聴覚に関しても同様のことが起きます。ファミリーレストランや居酒屋などの賑やかな場所に行くと、誰かと話をしていても、BGMや周囲の会話、食器の音といった「空間にあふれる音の情報」をたくさん拾ってしまい、すぐに頭がいっぱいになってしまうのです。
[講座スライドより]
大多数の人のように、「聞きたい音だけをある程度抽出して、いらない音は聞かない」という調整が私には難しいようです。言葉の意味の判別を邪魔するさまざまな物音や、部屋の広さによって生じる反響音なども全部等価に耳に入ってきてしまうため、聞き取りが難しくなるのです。また同じ理由で、自分の話し声も聞き取りづらくなるので、少しでも反響音に気をとられてしまうと「自分が何を話しているのか」が分からなくなり、うまく会話を続けられなくなります。
中学時代に抱えていた「文字が読めない」という症状に関しては、アルファベットを構成する、縦線やカーブ、点といった細かいパーツの部分を情報として拾ってしまい、それらを交互に高速で受け取っているため、「形をまとめ上げる」のが難しく、一つの単語として覚えづらいという仮説が立ちました。この症状を『識字障害』と呼ぶこともできますが、私の中ではこれも他の感覚と同じで、細かくたくさんの情報を拾ってしまうことによる情報のまとめ上げの困難さが「視覚の領域でも生じている」に過ぎません。
[講座スライドより]
別の言い方をすると、私は「世界をカテゴリー化する時の解像度」が多数派よりも高い、ということになるかもしれません。多くの人が“全体”に注目する時に、私はそれよりも“細かい対象物”に注目する傾向があるのではないかと考えています。私の解像度に該当する言葉が、多数派を中心とする社会には流通していないことから、私は他者と共有されない、分からないことだらけの世界に閉じ込められているような不安を、常に抱えていました。
[講座スライドより]
発達障害は、「こだわりが強い」と言われることもよくあります。私もそう言われて育ってきました。
しかし私の場合、「こだわりが強い」というのは一次的な特徴ではなく、意味や行動がまとまりづらいことによる不安や恐怖の結果だと考えています。ここまでお話したように、自分や社会に何が起こるのか分からない不安や恐怖に常にさらされているため、見通しを良くして「びっくりする度合い」をなるべく減らしたくて、秩序を求めてオリジナルなルールを作っていくのです。
特に私の場合、写真的な記憶が強いのか、最初にインプットされた記憶が強烈に焼きついているため、物の置き場所が変わったり、見慣れた場所に新しいものが置かれたりすると、その「予測誤差」に敏感に気づきやすいようです。間違い探しのゲームのように、そこだけ際立って目に飛び込んできて、びっくりさせられるとともに、いつもある「環境や物との仲良しの関係」を壊されたような、怯えや不安、怒りの感情などが出てきてしまいます。徐々に記憶が更新されていけば、びっくりすることも少なくなっていきますが、多くの人より時間がかかります。
下の図は、お母さんが散らかった部屋を見て、「片付いてないわね!」と言うと、子どもが「そうだねぇ」と返事をしている様子の絵です。お母さんの言葉には、「片付けなさい」という“命令”の意図がある一方、子どもは言葉を“字義通り”に受け取ってズレが生じている、というシーンです。
[講座スライドより]
しかし、そもそも言葉には、「現実・意味」を伝える機能と、「目的・行為」を伝える機能があります。その時・その場面でどちらを伝え、どちらを受け取るかは多数派の人々の習慣の中で自然と決まっています。マイノリティの人々の場合、多数派が作っている世界にさまざまな局面でアクセスしづらいことから、普段から「現実や意味を確認したい」というニーズが生じやすい可能性があります。その結果、こうしたすれ違いが起きているのかもしれません。
以上のように、私の場合、多くの人よりも「細かくたくさんの情報を受け取る」という一次的な身体的特性が前提としてあり、その特性を抱えて、多数派の人たちが作り上げた社会のルールやコミュニケーション・デザインに参入した結果、「社会性やコミュニケーションの障害」と呼ばれるすれ違いが起きているのではないかと考えています。
そもそも「コミュニケーション」とは、人と人の相互作用で二者の間に生じるもの。ですから、多くの人が共有している文化やルールに当てはまることができる多数派の人々と、それには当てはまりにくい、さまざまな身体的特徴を持った少数派の人たちがいて、その間にすれ違いとして生じている現象が「コミュニケーション障害」だと私たちは考えています。このように、個人の問題ではなく、社会環境の問題として考える『障害の社会モデル』で障害を捉えると、マイノリティのバリエーションの数だけ、多数派とされる人たちとのコミュニケーション障害は生じうると言えます。
[講座スライドより]
しかし、自閉スペクトラム症の診断基準である「社会性コミュニケーション障害」という定義は、教育、就労、司法など社会のさまざまな領域で、何か違和感がある、うまく通じないというすれ違いの現象の原因を、ある個人に一方的に押し付けて排除することを可能にしています。
そのため、自分に起きた不幸は「すべて発達障害のせいだったんだ」と、個人の問題として辛さを抱えてしまう当事者たちも少なくありません。ですが、社会の問題としての部分まで個人の問題にするのではなく、社会の問題はまず社会に返そうよ、と私は伝えたい。その上で、さらに残った自分の身体的特性があれば、それに関しては当事者研究で仲間と知っていこう、という二つのアプローチが重要だと私たちは考えています。
[講座スライドより]
社会というのは、「無色透明」なものと感じている方もいるかもしれません。しかし、テクノロジーの進化やグローバリズムの流れに見られるように、社会はずっと移り変わっていて、その変化のスピードも複雑性も増すばかりです。
大量生産・大量消費の時代には、工場などで流れ作業に従事する労働者が求められていました。その中で、繰り返しの作業を正確にこなす自閉症傾向のある人々は貴重な労働力とされ、手足が動かない人々は排除されていたと言えるかもしれません。しかし、低成長の時代になった今、次々と変化していく生産ラインに「柔軟に対応できる」労働者が求められるようになってくると、今度は、繰り返しに強くても「変化には弱いタイプの人たち」が障害化させられる可能性があります。
このように、「社会と障害」は密接につながっています。「普通」とされる人は、たまたま社会の価値基準と同じ色だから目立たず多数派にいますが、社会の価値基準が変われば、これまで障害者とされていた人が、普通の中に溶け込んで障害者として見られなくなったり、逆に、普通とされていた人が突然障害だとあぶり出されてしまったり、ということも起こりうるでしょう。
[講座スライドより]
私たちの研究室では、「多数派の人たちの無自覚なルールを少数派が研究する」という取り組みも行いました。多数派のコミュニケーション・デザインから排除されがちな少数派が、「騒がしい中で、どうして相手の声だけを聞き取れるの?」「どうして言葉の裏と表が分かるの?」「皮肉ってどうやって言うの?」といった多数派側への問いを明らかにしていくもので、『ソーシャル・マジョリティ研究』と名づけました。これも、「社会の問題は社会に返す」というアプローチのひとつとして続けていきたいと思っています。