東京大学先端科学技術研究センター 協働事業

当事者研究とは?

かつて、「幻覚」や「妄想」と呼ばれる症状を持ちながら、精神障害のある人々が地域の中で暮らしていく際に生じるさまざまな苦労に対して、そのメカニズムや対処法に関する知識を、医師などの専門家をはじめ、私たちは十分に持っていませんでした。そのため日本では、多くの精神障害のある当事者が、長い期間にわたり地域社会から隔離され、精神病院等で暮らしてきました。当事者研究は、2001年に、地域でともに生きることを選んだ北海道浦河町の精神障害のある当事者とその支援者によって生み出された、在野の研究活動です。

私たちは、自分の経験やニーズを理解し、他者に伝える時に、言葉やイラスト、身振りなどの「表現」を用います。他者に伝わる表現であるためには、ある程度人々の間で共有されている表現資源の中から選ぶ必要があります。しかし、幻聴や妄想とともに生きることなど、一部の経験は、それを「当事者の視点から伝える表現資源が世の中にない」ことがあります。こうした不公平な状況を『解釈的不正義』と呼びます。表現できない苦労は、当事者に、もやもやとした感情を引き起こすだけでなく、周囲の人々から誤解されたり、時に差別されたりという状況につながることも珍しくありません。

苦労のメカニズムや対処法の解明を、医師などの専門家に丸投げにするのではなく、当事者自らが苦労の専門家となって、似た苦労を持つ仲間と協力して探求していく当事者研究。それは、当事者ならではの経験やニーズを表現する「新しい言葉」を生み出し、イベントでの研究発表や、雑誌、書籍などを通じた発表により、生み出した言葉を地域社会に広めることで、解釈的不正義を是正し、異なる人々が表面的な言動ではなく、背後にある主観的な経験を知り合う活動とも言えます。

「解釈的不正義」という不公平な状況は、精神障害のある人々とない人々の間にだけあるわけではありません。発達障害、依存症、高次脳機能障害、慢性疼痛、トランスジェンダー、認知症など、さまざまなマイノリティ性を自認する人々の間で、当事者研究が広がってきました。最近では必ずしもマイノリティ性を自認していない、子育て世代の当事者研究や、コロナ禍の看護師さんの当事者研究、子どもたちや学生の当事者研究など、もやもやを抱えるさまざまな人々に広がりつつあります。当事者研究における当事者の定義は、「解釈的不正義の中で不公平な状況に置かれていることを自覚したすべての人々」と言えます。

また、当事者研究を通じて、専門家だけでは思いつくことのできなかった新しい知識や技が生み出され、当事者と専門家との対等な共同研究や、行政機関との連携による公的サービスの改善に向けた共同も始まりつつあります。こうした、サービスの利用者や研究の対象者が主役となって、サービスのデザインや研究を進める活動を「共同創造」と言います。加えて、胸を張って互いの弱さや苦労、ニーズを情報公開しながら、ともに知恵を絞ってチームを作り上げていく手法として、一部の企業やその他の組織に当事者研究が導入されつつあります。

このように、多様な人々が「表現」を介して理解し合いながらともに暮らす地域社会や組織を共同創造するために、当事者研究は有効な考え方のひとつだと言えます。北海道浦河町から生まれたこの技法が、2021年度から杉並区に根付きつつあることを、心強く思います。

熊谷 晋一郎
医師・研究者
1977年山口県生まれ。新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。以後車いすでの 生活となる。東京大学医学部卒業後、病院勤務などを経て2015年から現職。専門は小児科学、当事者研究。博士(学術)。著書『リハビリの夜』(医学書院、2009年)で第9回新潮ドキュメント賞を受賞。近刊は『当事者研究をはじめよう』(同、2019年)、『小児科の先生が車椅子だったら』(ジャパンマシニスト社、2019年)、『当事者研究』(岩波書店、2020年)など。
伊藤 剛
編集者・クリエイティブディレクター
2001年、コミュニケーションデザイン会社『asobot』を創業。ジャーナル誌
『GENERATION TIMES』を始め、多くのメディア企画を手がけるほか、まちと学びを編集するNPO法人『シブヤ大学』を設立(グッドデザイン賞2007)。以後、学校や自治体の教育プログラムの開発に携わり、2021年『Learning Design Lab.』を発足する。主な著書は『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか 〜ピース・コミュニケーションという試み〜』(光⽂社)、『被災地デイズ』(弘⽂堂)など。
ジブン・ラボTOPへ