東京大学先端科学技術研究センター 協働事業

ゲンゴカ・ラボ 講座レポート

ことばの統語論「文法が不正義になる時 ~中動態の世界~」

ダイバーシティ、インクルージョン、多様性……昨今耳にすることが増えてきた、これらの言葉。それらを「当事者研究」をベースに、「知識」や「技術」として身につけるためのカリキュラムとして2022年からスタートした『ジブン・ラボ』シリーズ。

2025年は「言語化」をテーマに『ゲンゴカ・ラボ』と称し、自分のモヤモヤを伝わるカタチにするための言葉の仕方を学んでいきます。

第4回講義は、2011年に刊行した哲学書『暇と退屈の倫理学』(新潮社)が累計50万部ベストセラーを記録した東京大学総合文化研究科教授の國分功一郎先生が登壇。今回は2017年に刊行し、第16回 小林秀雄賞を受賞した『中動態の世界:意志と責任の考古学』(新潮社)で登場した「中動態」という概念を手がかりに、言葉の文法の観点から「不正義」を考えていきます。

※本記事は、すぎなみ大人塾総合コース「ジブン・ラボ」シリーズ2025『ゲンゴカ・ラボ』で行われたカリキュラムより抜粋・再編集したものです。

このレポート記事は、実際の講座内容をもとに要約したものです。実際の講座内容が気になる方は、ぜひ動画をご覧ください。

目次

「風に任せるように動く」。言語にならない身体性

熊谷先生:私と國分功一郎先生は、知り合ってから約15年が経ちますが、会うたび、話すたびに発見がある哲学者です。最初はいち読者としてご著書『暇と退屈の倫理学』を読み、「これは!」と思って、私からSNSで國分先生に連絡しました。今日は、國分先生がその後出版された『中動態の世界 意志と責任の考古学』の中で登場した「中動態」についてお話を聞いてみたいと思います。

第1回講義では、「障害は、その人の“身体の内”側ではなく、“社会環境”の側にある」と考える障害の『社会モデル』というものを紹介しました。社会環境は基本的にマジョリティ向けに設計されているため、マイノリティである私にはうまく使いこなせなかったり、身体に馴染まなかったりする。そこに障害が発生しているという考え方です。そして、実はそうした社会環境だけでなく、私たちが普段使っている「言葉」もマジョリティ向けにできています。

例えば、脳性麻痺がある私は、目の前のコップを掴もうとする時、「よし掴むぞ!」と強く意気込んで身体を動かそうとすると、逆に手に緊張が入ってうまく持てなくなるんです。意志のもと能動的に持とうとすると持てない、というジレンマがあるんですね。

では、私が普段どのように身体を動かしているかというと、意識しないように、能動的にならないように“ふんわり”動かしている。「風に任せる」ような感じです。この感覚は「能動」でも「受動」でもありません。このような自分の身体の動かし方を説明しようと思っても、残念ならがらうまく説明できないんです。なぜなら、私たちが使っている言葉の中に、“この身体の動かし方”を説明できるような表現がないからです。

同じようなことが、『中動態の世界』の本の中にも、アルコール依存症の自助グループでの対話として登場します。依存症の人たちは、強い決意で「絶対に飲まない!」と思っていても再発してしまうことが分かっていますが、それは意志が弱いからではありません。自助グループでは、「酒を止めた」という意志的な表現ではなく、「酒が止(や)まった」、つまり「雨が止んだ」と同じような「委ねる」ような言い方ができたら、回復の傾向にあるとされています。これも「止めた」「止めさせられた」という能動と受動では表現できない状態です。

今回の講義では、國分先生にそのような文法の観点から「不正義」についてお話いただきます。

「能動態」「受動態」では説明できないこと

國分先生:熊谷さん、ありがとうございます。実は、僕が熊谷さんと出会っていなければ、『中動態の世界 意志と責任の考古学』という書籍は生まれていませんでした。というのも、熊谷さんと一緒に講演会を開いた時、その講演会の最前列にたまたま依存症の自助グループの方々が座っていて、その方たちから聞いたこともないフレーズ(「ダメ。ゼッタイ。」は絶対ダメ)や問いを投げかけられました。

依存症では意志や能動的な努力が逆効果だと知って、僕にとってはそれがとても衝撃で、「これは哲学の問題だ」と強く感じました。もともと僕の専門は、17世紀オランダの哲学者・スピノザと、20世紀フランスの現代哲学者・ドゥルーズなのですが、ちょうど彼らの時代に「意志」や「能動性」を疑う哲学が生まれています。

「意志をもって行動する」「能動的に行動する」が主流の現代社会において、そこから取り残されてしまっていた方が講演会でたまたま目の前に現れて、「僕が研究してきた現代哲学が彼らに向けて何かを言わなければ」と使命感に駆られたことをきっかけに、5年をかけて「中動態」を書籍にまとめたんです。

それでは、その「中動態」とは何なのか? まずは「中動態」を説明します。

先ほど熊谷さんが、「能動的にしようと思うと動作がうまくいかない」「風に任せるように動かす」とおっしゃっていました。熊谷さんが自分の身体の動かし方を説明しようと思うと、今ある言葉ではフィットしないと。

しかし僕たちの頭には、「する」の能動態と、「される」の受動態の対比が強くインプットされています。そもそもこの考え方がどこから来ているのかというと、「言語」からなんです。つまり、あくまで「文法の用語」であり、普遍的な「ものの見方」ではないんですね。

この僕たちが慣れ親しんだ「能動態」と「受動態」の対比に基づく文法体系ではなかった時代があって、それが「能動態」と「中動態」の対比に基づく文法体系というものです。

「する/される」ではなく「外/内」で考える能動態/中動態

現在の文法体系である「能動態」と「受動態」の対比は、「する」と「される」です。そしてこの「中動態」は、よく能動態と受動態の真ん中にあるものと思われてしまうのですが、それはまったくの間違いです。

能動態 する ー中動態ー 受動態 される

現代では、「する(能動態)」と「される(受動態)」が対照的なものとして捉えられていますが、過去には「能動態」と「中動態」が対照的な関係にありました。

では、この能動態と中動態は、「する」「される」ではなく、どういう関係だったかというと、「内」と「外」という分け方だったんです。僕の中で何かが湧き起こって、僕の「内」で完結するものは中動態。一方で、外で完結する動作の場合は能動態としていました。これは、決して小難しい哲学概念ではなく、昔の人たちはおじいさんも小さな子どもも、みんな能動態と中動態という文法を使っていました。

能動態 外ー受動態 内

例えば、僕が何かを誰かに与える。これは、自分の「外」で完結している動作なので能動態です。一方で、「水が飲みたい」という欲求が僕の中で起こる。これは、僕の「内」に起こることなので中動態となります。

現代的な感覚では、「水が飲みたい」は意志をもった能動態だと思われがちですが、もともとは僕の中に「水を欲する状態」が起こり、その欲望に突き動かされ、わざわざ自動販売機に水を買いに行って、「水を飲む」という行為に繋がります。「水を飲みたい」という欲望に突き動かされていると捉えれば受動態のようにも思えますが、でも「水を買いに行く」のは僕なので能動態とも言えそうです。 能動か受動なのか説明が難しい例は他にもあります。

例えば、「人を好きになる」という行為は能動態でしょうか、受動態でしょうか? 好きになったのは私自身ですから、誰かに強制され「好きにさせられた」という受動態ではありません。でも、意志があれば誰かを好きになれるわけでもありません。「人を好きになる」とは、まさに自分の内の中に起こるものです。

このように、能動態と受動態では、「水が飲みたい」「人を好きになる」というありふれた現象ですら説明することができないことがあります。

ここまで聞いて分かったかもしれませんが、文法は決して普遍的なものではなくて、歴史の中で変化していて、その構造の変化が社会にものすごい影響を与えています。それは、能動と受動では説明できないという熊谷さんの身体の話も然り、自分に起きている現象をうまく説明できない、この苦しみをわかってもらえないということを実は引き起こしているんです。

「意志」の誕生と、「責任」の問題

中動態には、もう一つ重要な論点があります。それが「意志」の概念への批判です。

文法に能動態と中動態が使われていた時代は、「意志」という概念で物事を考える必要がありませんでした。そもそも古代ギリシャ語には「意志」という言葉が存在していないんです。つまり、「意志」という概念は決して普遍的なものではありません。

ところが、能動態と受動態で物事を捉えるようになると、「意志」がとても強調されるようになりました。その行動は「自分の意志でやった」のか、もしくは「やらされた」のか。分かりやすい例でいうと、司法において「過失致死」なのか「殺人」なのかは、「意志」があるかないか、つまり殺意の有無が争点になります。

では、なぜ普遍性がないのに私たちは「意志」を使っているのでしょうか?

先ほどの水の例で考えてみましょう。私たちは、しばしば「行為=意志の実現」と捉えているので、「水を買いに行く」という意志があるから、その意志が実現されて水を買いに行くことができたと考えますよね。

ですが、実際は一つの行為にはたくさん要素が関係しています。水を飲みたいという身体状況に加えて、「水を買えるだけのお金を持っていること」「自動販売機まで行けること」「水を買いに行く時間があること」。さらに言えば、「のどが渇いた時には水を飲むといいと理解していること」「水は自動販売機で買えるという知識があること」などです。「水を買いに行く」という行為の原因には、無意識的にこれほどの要素があるのです。

のどが渇いたから水を買いに行く

このように、人間の行為は数えきれないほどの原因を持っていて、それらが奇跡的に集まり、その要素が奇跡的にコラボレーションして起こるものです。ところが、人間はどうしてもそうした複雑な背景に考えが及ばないので、「行為=意志の実現」だと思ってしまうんですね。

そして、この「行為=意志の実現」という前提を活用すると、「行為の責任の所在」を明らかにすることができます。例えば、何か加害行為があった時、この加害行為が起こってしまった背景にも、無限の要素がありえます。しかし、行為の複雑な背景を追求しているとその加害行為をした人に「責任」を取ってもらうことができません。

加害行為

そこでどう考えるかというと、「意志からその人の行為が始まっている」と考えるようになりました。つまり、意志と行為を直結させました。いろいろな要素が原因として行為の背景にあるけれど、責任の所在を明らかにするために、意志の有無で加害行為をその人に帰属させました。「あなたの責任」として、行為を持ち物のようにしたんです。

ですが、本来「行為」というのは誰か個人の独占的な持ち物ではありません。今日僕がこうしてみなさんの前で講義ができているのも、僕一人の行為ではないはずです。僕の予定が空いていて、熊谷さんの予定も空いていて、そして何よりみなさんが講義を聞きにきてくれている。万が一誰も聞いてくれなかったら、今日の講義は成り立ちません。このように「行為」は、誰かと共有しているとも言えます。ところが、「共有している」としてしまったら、加害行為の責任を取らせることができません。なので、仕方なく「あなたの意志でやった」「だから、あなたの責任」としました。

そう考えると、意志というのは「切断」機能をもっているとも言えます。行為の背景にある多様な原因をブツっと切断して、「意志」を出発点に設定することで、「責任」を追及することができるようになったのです。

加害行為

繰り返しになりますが、人は必ずそれぞれに歴史を持っています。歴史も行為の原因になります。また、人は自分がいる環境から必ず何かしらの影響を受けています。環境も、行為の原因になります。

僕は仮説として、能動態と受動態の文法が生まれたことと、「意志」という概念が生まれたことは、並行関係にあるのではないかと思っています。

今の現代社会は、能動態と受動態の世界になり、「意志」の概念がものすごく重要になっていますが、もしかしたら「意志」が生まれたタイミングで、文法的な「不正義」も生まれたのかもしれません。

※本記事の内容は、講義の一部です。続きは動画をご覧ください。また、記事内の説明画像は編集部がオリジナルで制作したものになります
國分功一郎
東京大学総合文化研究科教授
1974年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は、哲学・現代思想。2017年、『中動態の世界』で小林秀雄賞を受賞。著書に『暇と退屈の倫理学』、『ドゥルーズの哲学原理』、『近代政治哲学』、『スピノザ──読む人の肖像』、『目的への抵抗』、『手段からの解放』、『〈責任〉の生成──中動態と当事者研究』(熊谷晋一郎と共著)など多数。

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