東京大学先端科学技術研究センター 協働事業
ゲンゴカ・ラボ 講座レポート
「認識的不正義とは何だろう?」
佐藤邦政(茨城大学大学院教育学研究科講師)
講義日 2025-09-12
ダイバーシティ、インクルージョン、多様性……昨今耳にすることが増えてきた、これらの言葉。それらを「当事者研究」をベースに、「知識」や「技術」として身につけるためのカリキュラムとして2022年からスタートした『ジブン・ラボ』シリーズ。
2025年は「言語化」をテーマに、『ゲンゴカ・ラボ』を開講しました。第2回講義は、茨城大学大学院 教育学研究科講師の佐藤邦政先生による「認識的不正義とは何だろう?」です。本講義では、いくつかの事例を通して『認識的不正義』をひも解いていきます。
※本記事は、すぎなみ大人塾総合コース「ジブン・ラボ」シリーズ2025『ゲンゴカ・ラボ』で行われたカリキュラムより抜粋・再編集したものです。
このレポート記事は、実際の講座内容をもとに要約したものです。実際の講座内容が気になる方は、ぜひ動画をご覧ください。
目次
今回は、『認識的不正義』について説明します。もともとは、イギリスの哲学者ミランダ・フリッカー氏が提唱した概念で、学術的にはいろいろな説明の仕方がありますが、まずは身近なところから考えていきたいと思います。
[講座スライドより]
この言葉は「認識」と「不正義」の2つの言葉でできていますが、みなさんは「認識」と聞くと、どんなことを思い浮かべますか?
日常ではあまり使わない言葉ですが、「真実」や「真理」「理解」に関わる意味だと捉えてください。それら「真実」などに関して、「不正義」がある。少し不思議に感じるかもしれませんが、今日はその意味を、いくつかの事例を通して考えてみたいと思います。
まずは、私の自己紹介からします。 私は茨城大学 教育学部 教育学研究科で教員をしており、哲学、特にフェミニスト哲学を専門に研究しています。家庭では6歳の娘と妻の3人暮らしで、最近は自我を持ち始めた娘にしばしば怒られながら、楽しく生活しています。父は北海道出身で、東大で博士課程を取得し、数年前に他界しています。母は神奈川県出身で、学生時代は学生運動に関わっていました。
[講座スライドより]
少し丁寧に自己紹介をしましたが、実はこれによって私の「社会的アイデンティティ」を紹介したことになります。つまり、私は「教員」であり、「父親」であり、「東大で博士課程を取得した父」と「学生運動をしていた母」の息子であることが分かったかと思います。
この社会的アイデンティティは、自分のことを理解してもらう手助けになる一方で、それが“悪さ”をすることもあります。例えば、「こういう人だから付き合わない」「あの人の話だから聞かない」といったような具合です。今日は、そうした「話を聞かれない」「意見が届かない」「理解しようとしてくれない」不正義について考えていきたいと思います。
2021年に、オリンピック・パラリンピック東京大会組織委員会の森喜朗会長が、「女性理事を増やす」という方針に対して、このような発言をしました。
女性理事を選ぶというのは、日本は文科省がうるさくいうんですよね。だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議に時間がかかります。(中略)女性っていうのは競争意識が強い。誰か一人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。(中略)私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ?七人くらいか。七人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。
この発言は大きな批判を呼び、森氏は辞任しました。
ここでのポイントは、組織のトップがこうした発言をすると、当然、その組織の中にいる一部の人たち、主に女性が発言しにくくなるということです。「言っても聞いてもらえないかもしれない」「余計なことを言わない方がいいかも」と思い、自ら発言を控えてしまう。自分の中で発言したいという「真実」や「真理」があったとしても、伝える前に自分を自ら抑圧してしまうことが起こるのです。
次は、2021年3月に、名古屋の入管収容施設でスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが、適切な治療を受けられず亡くなってしまったという事例です。これは人権侵害にあたる重大な問題です。
では、人権侵害につながってしまう前に、防ぐことはできなかったのでしょうか?
実はウィシュマさんは体調不良を何度も訴えていたにもかかわらず、職員は取り合ってくれなかったと言います。彼女自身は自分の「真理」を語っていたにもかかわらず、聞き入れてもらえなかった。これも『認識的不正義』の事例です。
みなさんは、『ヤングケアラー』という言葉を聞いたことがありますか?
ヤングケアラーとは、本来大人が担うはずの家事や家族の世話を、日常的に行っている18歳未満の子どもや若者のことを指します。
この言葉が広まる以前は、そうした子どもたちは学校で「授業をさぼっている」「不真面目」と見られることもありました。でも実際は、家で家事や介護をしていて、疲れていただけだった。でも、周りの人から「さぼっている」「不真面目」とみられると、本人も悪いことだと思ってしまい、説明できなかった。『ヤングケアラー』という言葉ができる前から、そうした状況に置かれた子どもたちは当然存在していましたが、そうした子どもたちを拾い上げる言葉そのものがなかったんですね。
子どもの立場に立って考えてみると、家庭の事情を周囲には話しづらいですし、社会的に力が弱い立場にあるため、自分の声が届かないと感じてしまうこともあります。一方で、子どもだからこそ、自分で自分自身が陥っている状況を正しく理解できていないという側面もあります。
3つの事例を通して見えてくる『認識的不正義』のポイントは、自分が持っている「真実」や「真理」の共有が、不当な形で妨げられたり、歪められたりすることです。その結果、一部の人たちの声が届かなくなってしまう。これが『認識的不正義』です。
[講座スライドより]
なぜ、こうした不正義が起きるのでしょうか?
それは、社会的アイデンティティに対する「偏見」、あるいは人間関係の間にある「非対称な権力」が影響しています。例えば、子どもと親、生徒と教師、職場なら上司と部下などの関係にある非対称性ですね。またそうした立場だけでなく、「声が大きい」「威圧的な態度」といったことも、力の偏りを生みます。
しかし、そうした偏見や権力の非対称性は、悪徳な個人だけの問題ではありません。なぜなら背景には、社会全体の規範や文化が関わっているからです。
認識的不正義は、事例で紹介したように女性や外国籍の方、子どもにだけ被害が及ぶ、あるいはその反対にいる人が加害者になるとは限りません。実際は、誰もが被害者にも加害者にもなる可能性があります。
例えば、私は「大学の教員」なので、それだけで権力を持ってしまうため、注意しなければなりません。しかし別の側面で見ると、6歳の娘を持つ一人の父親です。人は誰しも、「複数の社会的アイデンティティ」を持っており、ある場面では被害者になり、別の場面では加害者になることがありえます。
認識的不正義の被害者は女性や外国籍の方だけではありません。性暴力の被害を例に考えてみましょう。 性暴力の被害は9割以上が女性ですが、男性の被害が0というわけではありません。しかし男性の場合、もし被害にあったとしても信じてもらえなかったり、まともに受け止めてもらえなかったり、ひどい場合はからかわれてしまうことさえもあるわけです。
<身体的特徴><出生地><生育地><年齢><言語><方言><ジェンダー><セクシュアリティ><障害><宗教><階級><社会階層>など、人は複数の社会的属性をもっており、その組み合わせ方によって、人々がどのように扱われるのかが変わる。これを『インターセクショナリティ』と言います。
[講座スライドより]
また、「どうして正義ではなく、不正義なの?」という疑問が湧いた方もいるかもしれません。過去の議論では、「正義」が分かれば、「不正義」も自然と分かると考えられてきました。しかし、正義ばかりが語られ、不正義が見過ごされてきたからこそ、さまざまな不正義が顕在化しました。
日本では在日コリアンに対するヘイトスピーチが時おり起こりますが、<在日コリアン>という社会的アイデンティティが重要になるのは、日本の社会だからです。不正義を理解するためには、具体的な社会や文脈が分からないと見えてこない。だからこそ、不正義の起きる現場そのものに焦点をあてなければいけないんです。
認識的不正義の中には、大きく分けて『証言的不正義』と『解釈的不正義』という二つの種類があります。
[講座スライドより]
『証言的不正義』というのは、社会的アイデンティティによって「言葉の信用性が低く見積もられてしまう」不正義のことです。「証言」というのは、公的な場面での証言だけでなく、日常的なお喋りや会話なども含まれています。
[講座スライドより]
証言的不正義の構成ポイントは、「真理」や「知識」の伝達が、「偏見」のせいで妨げられること。特に「偏見」に焦点をあてると、偏見は潜在的なバイアスとして働きます。自分でも知らない内に身につけていて、知らない内に発揮してしまっている。
例えば、女性の政治家が立候補した時、「女性だから」といって話を聞こうとしない、そのような偏見が働くと、真理の伝達が妨げられてしまいます。
一方、『解釈的不正義』というのは、「物事の解釈に関わる」構造的な不正義のこと。自分の置かれている境遇や自身の経験を理解するための「言葉」や「概念」が社会に存在しないために、本人も自分の経験や状況をうまく理解できなかったり、他者に伝えられなかったりすることです。
[講座スライドより]
例えば、有名な事例では『セクシュアルハラスメント』が挙げられます。
この言葉が生まれる以前は、自分の中にモヤモヤした違和感があるんだけれど、他の人にはそれがうまく伝わらない。すると、「自分が大げさに感じているだけなのかもしれない」「不快な思いをしているのは私だけだ」と解釈してしまいます。
しかし、『セクシュアルハラスメント』という言葉が見つかったことで、自分たちの状況を明らかにして、自分たちに何が起きているのかを自分も社会も理解できるようになりました。
このように『解釈的不正義』というのは、困っている状況を表す適切な言葉がないからこそ、うまく相手に伝えられず、自分でさえも誤解している状況のことを言います。『セクシュアルハラスメント』だけでなく、先ほど取り上げた『ヤングケアラー』や『ドメスティックバイオレンス』なども、言葉ができたことで自分も他者も解釈ができるようになりました。
認識的不正義をなくしていくために、私たちにできることは何でしょうか?
それは、相手の語りを丁寧に「聞く」ことと、そして自分自身を「語る」ことです。ナラティブ(語り)というのは、決して難しい理論ではありません。誰にとっても身近な「お喋り」のことです。
[講座スライドより]
ナラティブとは、自分の経験をどんなふうに理解したか、そしてその時どんな感情や気持ちを抱いたかを伝える営みです。言い換えれば、自分の世界観を共有すること。お喋りする時、私たちは、相手にどうすれば伝わるかを考えながら話します。どんな順番で話そうか、どこを強調しようか、どんな言葉を選ぼうか。そうやって、頭の中で言葉を組み立てながら、自分の経験を相手に届けようとしています。
「こんなことがあったよ」「あの時、こんなふうに感じたんだ」と、日常のエピソードを語り合うこと。語り手も聴き手も「どんなことがあったのか」に関心をもって聴き合うこと。それを通じて、私たちはお互いの感じ方や世界の見え方を少しずつ理解していきます。そうした語り合いの中で、『証言的不正義』や『解釈的不正義』といったものが、少しずつほどけていくのではないかと思います。認識的不正義を克服するための第一歩は、そうした「お喋り」から始まるのかもしれません。