東京大学先端科学技術研究センター 協働事業

ゲンゴカ・ラボ 講座レポート

“当事者研究”と認識的不正義

ダイバーシティ、インクルージョン、多様性……昨今耳にすることが増えてきた、これらの言葉。それらを「当事者研究」をベースに、「知識」や「技術」として身につけるためのカリキュラムとして2022年からスタートした『ジブン・ラボ』シリーズ。

2023年は『チガイ・ラボ』、2024年には『フツウ・ラボ』と題し、社会的マイノリティの当事者たちが見ている世界の在り方を知り、コミュニケーションの方法を探ってきました。

そして、2025年は『ゲンゴカ・ラボ』です。その名の通り「言語化」をテーマに、社会で使われている「ことば」の学びを深めていきます。自分のモヤモヤを、社会に伝わる形にしていくための探究です。

第1回目の講義では、東京大学先端科学技術研究センター教授の熊谷晋一郎先生による「イントロダクション」が行われ、自身の経験や当事者研究の歩みを紹介しながら、この講座全体を貫くキーワード「認識的不正義」について語られました。

※本記事は、すぎなみ大人塾総合コース「ジブン・ラボ」シリーズ2025「ゲンゴカ・ラボ」で行われたカリキュラムより抜粋・再編集したものです。

このレポート記事は、実際の講座内容をもとに要約したものです。実際の講座が気になる方は、ぜひ動画から体験してみてください。

目次

みなさん、こんにちは。2025年度の『ゲンゴカ・ラボ』を開講いたします。

今回、カリキュラム全体を貫くキーワードに「認識的不正義」というものがあります。恐らく、この言葉を聞いたことがない方も多いのではないでしょうか。

私の専門は「当事者研究」ですが、「認識的不正義」はとても密接に関わってくるキーワードになります。今回のイントロダクションの講義では、その「当事者研究」と「認識的不正義」をつなげて説明してみたいと思います。

当事者研究と熊谷先生の歩み

まずは、私の自己紹介です。見ての通り、私は車椅子に乗って生活をしています。生まれつき「脳性麻痺」という身体障害を持っていて、トイレに行くとき、お風呂に入るとき、着替えなどは自分一人ではできません。そのため介助者にサポートしてもらいながら、生活をしたり仕事をしたりしています。

仕事は二足の草鞋です。1つは、小児科の医師。もう1つは、大学で研究をしています。研究テーマは「当事者研究」と「小児科学」、さらに自閉症やADHDなど個性的な障害を持つ「発達障害」の研究です。

講師紹介:熊谷晋一郎 脳性まひという障害をもっています。伝統車椅子(Storm 3)に乗っています。

[講座スライドより]

「当事者研究」と「認識的不正義」を語る前に、まず私自身の経験を話します。

私は、1977年に生まれました。この写真は、私が3歳頃、リハビリをしているときのものです。左は立つ練習、右は膝立ちの練習です。私は物心つく頃から、1日5時間ほどのリハビリをしていました。

1970年代:健常者に近づかなくては社会で生きていかれない

[講座スライドより]

私は「脳性麻痺」の影響で膝や腕が曲がってしまうため、大人二人がかりで曲がった関節を伸ばすリハビリを行っていました。当時のリハビリはスパルタで、痛みを伴いました。子ども時代は、ずっと泣いている記憶ばかりが残っています。

しかしながら、当時の医学では「一生懸命リハビリをすれば治る」という考え方が一般的で、両親もその言葉を信じてリハビリを続けてくれていました。泣きじゃくる私を前に、心を痛めながらも訓練を続けていたのです。

ところが、1980年代に入ってより詳しく研究がなされた結果、リハビリには効果がないことが証明されました。こうした「実は…」という事例は、医療界ではよく起こり得ることなんですよね。最初は信じられていた治療方法が、10年ほど経つと「やっぱり違った」というのは、よくあること。とはいえ、私を含めて家族は大きく翻弄されました。「効果がない」と手のひらを返されてしまったことで、途方に暮れてしまったのです。

しかし同時期、すごくラッキーだったのが、当時30代〜40代の障がいのある先輩たちが世界中で「身体障害者運動」を展開してくれていたことです。これは、障害の考え方を根本から変える運動でした。

では、どのように変えたのでしょうか。このイラストを見てください。車椅子に乗った男の子がいて、目の前には階段があり、困った表情をしています。

さて、みなさんはこのイラストの中で、どこに“障害”が宿っていると思いますか?

車椅子に乗った男の子 前の前には階段

[講座スライドより]

大きく分けると、2つの障害があると考えられます。1つは「男の子の皮膚の“内”側に障害がある」という考え方。もう1つは「皮膚の“外”側に障害がある」という考え方です。

「皮膚の内側に障害がある」というのは、階段を上れない男の子の足や、身体を操作する神経そのものに障害があるということです。これを障害の『医学モデル』と言います。私が70年代に受けたリハビリは、この考え方に基づき、私の身体の中にある障害を取り除こうとする発想でした。医学モデルで捉えられた障害は『インペアメント(impairments)』と呼ばれます。

それに対して、「身体障害者運動」によって生み出された考え方が、「皮膚の外側に障害がある」という考え方です。例えば、エレベーターが設置されていない“建物”に障害がある、介助者を十分に派遣できない“社会制度”に障害があるなどです。こうした障害は、私の身体の内側ではなく、外側(=社会側)にあります。これが障害の『社会モデル』です。社会モデルで捉えられた障害は『ディスアビリティ(disabilities)』と呼ばれます。

日本語では『インペアメント』と『ディスアビリティ』は共に「障害」と訳されますが、意味は全く異なります。

私の身体を治すのではなく、『インペアメント(impairments)』がある人でも使いやすい社会環境にする。少数派の身体や心はそのままに、彼らが環境に馴染めるように社会環境の側を変革していきましょう、という考えが「身体障害者運動」をきっかけに主流化していきました。

私は中学生のときに初めてこの『社会モデル』に出会い、大きな衝撃を受けました。それまで「自分の身体を治さなければならない」と思っていたため、リハビリをして効果が出なければ、ゲームオーバーだと感じていました。しかし、「私はこの体のままで社会に出ていい」「社会環境を整えればいい」ということを障害のある先輩たちが世の中に打ち出してくれたわけです。
今日、「インクルーシブな社会」「多様性」という言葉で語られる理想は、この障害の『社会モデル』に基づいています。国連や日本政府もこの考え方を正式に採用し、社会に広まってきました。

「見える障害」と「見えない障害」

さて、世の中にはさまざまな『インペアメント』があり、人によって見えやすさは異なります。私の『インペアメント』は、比較的伝わりやすいですよね。私の関節は明らかに曲がっているし、車椅子にも乗っている。話さなくても、私の身体が困っていることをある程度伝えてくれます。私はこれを「表現コストが節約できる」という言い方をしています。

しかし、世の中にはそういった見えやすい『インペアメント』だけではありません。私が専門としている発達障害、ADHDや自閉症スペクトラム障害は外見からわかりにくい『インペアメント』です。こうした障害は、周囲だけでなく本人自身も気づきにくい傾向があります。なぜなら、私たちは自分のことを理解するときに、他人の目を通して理解するからです。

周囲との認識や行動がずれると、「努力不足」「性格のせい」と解釈され、自分でも「私がおかしいのかな」「意思が弱いからだ」と考えてしまいがちです。

では、本人はどのように世界を見ているのでしょうか。その一例として、イギリスの自閉症協会が作成した動画があります。自閉症の男の子がショッピングモールに入り、どのような経験をしているかが描かれています。

ショッピングモールに入ると、目・耳・鼻と五感にさまざまな刺激がシャワーのように降り注ぎます。男の子は心を落ち着けようとしますが、それがうまくいかず、やがてパニックを起こします。この動画で印象的なのは、パニックを起こす男の子に対して周囲の大人たちが冷たい目線で、迷惑そうにしている様子が描かれていることです。

周囲が観察できるのは、最後に現れる「パニックを起こした姿」だけです。しかし、その手前には、男の子が多くの感覚的な苦労をしている事実があります。

「主観的な世界」をどう伝えるか

これまで、アメリカの自閉症研究では「行動」に着目する傾向がありました。それに対して、イギリスの研究は行動の手前にある「主観的な世界」に注目してきました。

私の研究分野「当事者研究」もイギリスの研究の在り方に近く、本人の経験や主観的世界に迫ります。本人にしか見えていない主観的世界を、どのように周囲に伝えるか。それが「当事者研究」のチャレンジです。

もう1つ事例を挙げます。2023年『チガイ・ラボ』に登壇した綾屋紗月さんの事例です。綾屋さんは30歳を過ぎてから「自閉症」と診断されました。

ある日、綾屋さんは友人とピクニックに出かけ、写真のような光景が広がっていたときのことです。

フォーカスした情報をたくさん摂取する=差異に気付きやすい

[講座スライドより]

この光景を見てお友達が綾屋さんに「紫の雑草、きれいだね」と声をかけました。その瞬間、綾屋さんはパニックになったそうです。

なぜかというと、お友達が「紫色の雑草」という一言で一緒くたにしてしまっている目の前の風景は、綾屋さんの目から見ると、全く異なる紫色の花がたくさん混じっているものに見えたからです。お友達が「紫色の雑草」という1つの大カテゴリーで風景を捉えたけれど、綾屋さんの目には異なるサブカテゴリーに分かれて見えていたんですね。サブカテゴリーの内のいくつかは確かに綺麗だけれど、残りはそんなに綺麗だと感じられない。だから、自分の認識に自信がなくなったり、世界の実在性が信用できなくなったりしてしまいます。

「もしかしたら、これは私だけにしか見えていないサブカテゴリーなんだろうか?」
「実は世界は、私が見ているように存在していないのだろうか?」
「そもそも、私は何かおかしいのだろうか?」

しかし幸いなことに、その後、綾屋さんのご両親が植物図鑑を用意してくれました。その図鑑を開くと、サブカテゴリーだと思っていた植物に対してすでに「それぞれの名前」が付いていることを知ります。これは何を意味しているかというと、綾屋さんと同じように“世界を見ていた人”がどこかにいたという証拠なんですね。

科学的、図鑑的なカテゴリーによって承認が得られることもある 当事者研究は既存の科学的言説を排除しない

[講座スライドより]

「私が見ていた世界は実在していたんだ!」「私の認識はおかしくなかったんだ!」と、言葉や名前というのはこのようにして人を救うことがあります。

私たちはみな「主観的な世界」を生きています。隣の人がどんな主観的世界を持っているか、知る由もありませんので、そういう意味では、人間というのは孤独で孤立しています。ですが、映像や言葉という記号を介して主観的世界を表現し、他者と共有できたとき、私たちは安心し、孤立から解放されます。

言葉と「認識的不正義」

一方で、私たちを孤立から救う「言葉」というのは、実はマジョリティ向けにできています。マイノリティの人たちが見ている世界を表現するようにはできていないんですね。

例えば、私たちは「これは机です」「これは花です」と、世界をカテゴリーに分けて認識していますが、とある先行研究では、自閉症の方の多くはカテゴリー分けが一般よりも細かいことがわかっています。そのようなカテゴリーの細かさのことを「カテゴリー粒度」と呼びますが、マジョリティ向けの言葉は、その粒度に合致しないため、自閉症の方は自分の世界を表す言葉を持てず、孤立していたりします。

経験に合った言葉(記号表現)が流通していない 参考:解釈的不正義(ミランダ・フリッカー) ・産後うつやセクシャル・ハラスメントといった言葉ができる以前、女性たちは自分たちの経験を単なる個人的な問題や「気のせい」としてやり過ごさなければならなかった。・「ある人の経験の重要な一部が、解釈的周縁化のために集合的理解から暗まされる不正義」(Fricker 2007: 158)

[講座スライドより]

ものを表すカテゴリー名だけでなく、体験や経験を表すような言葉も足りていません。例えば、『産後うつ』という言葉をご存じでしょうか。

これは比較的新しい言葉ですが、言葉が生まれる以前にも同様の経験は多くありました。では、今日で言う『産後うつ』だった女性たちは、一体どうやってその状態を解釈していたのでしょうか。

その言葉以前の女性たちは、見えにくい障害の場合と同じで、「私は母親失格なんだろうか?」「私の努力が足りないんだろうか?」と自分の性格や人格のせいにしてやり過ごすしかなかったわけです。

これは、言葉が男性の健常者向け、もっと言えば白人男性にカスタマイズされていたことを示しています。そこから外れるマイノリティは、自分の経験を表す言葉がないため、誰とも共有できず孤立します。こうした状況を『解釈的不正義』と呼びます。

まだ言語化されず、自分の中でモヤモヤした状態でしかない経験、世の中にまだ発見されていない経験というのが、実は数多くあります。では、どうやったら『解釈的不正義』を是正できるのか。それは、そのモヤモヤとした経験を持ち寄り対話しながら「ピンとくる言葉」を探し、新しく生まれた言葉を世の中に流通させることです。これこそが私が専門にしている『当事者研究』なのです。

加えて、『解釈的不正義』とセットで使われる言葉に『証言的不正義』というものがあります。これは、自分の経験を言葉で説明できるようになったとしても、「あなたは女性だから」「障害者だから」「あなたはまだ若いから」など、社会的属性によって信用されない不正義のことです。

そして、『解釈的不正義』と『証言的不正義』の2つを合わせて、『認識的不正義』と呼びます。

本講座の『ゲンゴカ・ラボ」では、この『認識的不正義』を全体テーマに据えています。みなさんが講義を通して、自分の中にあるモヤモヤの一部を言語化し、『認識的不正義』を是正できることを願っています。

熊谷 晋一郎
医師・研究者
1977年山口県生まれ。新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。以後車いすでの生活となる。東京大学医学部卒業後、病院勤務などを経て2015年から現職。専門は小児科学、当事者研究。博士(学術)。著書『リハビリの夜』(医学書院、2009年)で第9回新潮ドキュメント賞を受賞。近刊は『当事者研究をはじめよう』(同、2019年)、『小児科の先生が車椅子だったら』(ジャパンマシニスト社、2019年)、『当事者研究』(岩波書店、2020年)など。

次のレポートを見る

「認識的不正義とは何だろう?」

佐藤邦政(茨城大学大学院教育学研究科講師)

ジブン・ラボTOPへ